shika010

コンビニで買った缶チューハイを片手に、ビジネスマンの姿が消えた薄暗い大阪ビジネスパークを抜けると、おっぱいをデフォルメしたような擬宝珠が並ぶ橋の向こうに、乳色にライトアップされた大阪城が浮かんだ。

shika003

この新鴫野橋(しんしぎのばし)は、もともと「鴫野橋」と呼ばれていたそうだ。

大坂では珍しい公儀橋(町人ではなく江戸幕府の経費で架けられた橋)のひとつで、長らく一般の人々が利用できない歴史の中に置かれていたため、その存在を町の人々にあまり知られていなかったらしい。

そのせいか、後から近くに架けられた橋が「鴫野橋」と命名されてしまい、名前の重複を避けるために、もともとあったこちらの「鴫野橋」が「新鴫野橋」と改名されることになったのだという。

shika004

なぜ、後から「鴫野橋」と名づけた橋のほうを「新」と改めなかったのか。

その経緯は知らないが、本当は自分のほうが古株にも関わらず、新人扱いをされてもじっと黙って佇んでいる姿には、そのまま通りすぎることのできない母性本能をくすぐるなにかが漂っていて、あふれ出そうになる母乳を抑えながら、思わず足を止めた。

shika005

橋の真ん中で男が釣竿を垂らしていたので、その男とは反対側の欄干に寄りかかり、新しいチューハイのロング缶のプルタブをわざと大きな音を立てるように引く。

男は神経質そうにこちらを振りむいたが、酒を飲んでふらついている男だと分かると目を逸らし、再び水面をじっと眺めた。

shika006

なにが釣れるんですか。いや、むしろ、魚に川の中へ釣られるのを待っているんですか。

そんな言葉をなるべく友好的に男の背中へ投げかけるも相手にされず、コンビニのビニール袋を必要以上にガサガサ言わせて魚を遠ざけてやりながらフランクフルトを取りだす。

ケチャップとマスタードをワンタッチでかけられると書かれている容器をつぶすと、案の定、それはとんだ詐欺で、マスタードが手のひらにひどくかかってしまった。

shika007

まいったな。男の背中にこすりつけて拭いてしまおうか。でも、失礼かな。

ただ、川を覗きこむ男の背中はあまりにも無防備で、「どうぞどうぞ、遠慮なく」と言っているようだった。せっかくなので、ここはお言葉に甘えることにして男の背中にドンと手を押しつけると、アッと短い叫び声が闇夜に響く。

その瞬間、いつのまにか誰かが隣に立っていることに気づいた。

shika008

こちらをニコニコと見つめている男は、小柄な身体とは裏腹に、顔が異様に大きい。

それもそのはずで、顔の周りにだけ「顔ハメ看板」があった。手作りの板に描かれた「鹿」の頭部にぽっかり開いた穴。そこに男の顔面がぴったりハマり、頭からは立派なツノが生えている。

男は「この大きさなら、持ちはこべるから便利でしょう? 新しいでしょう?」と言った。

たしかに、ウェアラブルな顔ハメ看板をつけて歩いている人間をかつて見たことがない。「どこでも顔ハメ看板ですね」と褒めると、鹿男は満足したように自分の顔の前へわたしの手を持っていき、ペロリペロリと舐めはじめた。

shika009

おかげさまで、マスタードはきれいに消えてなくなった。

それでも舐めつづける舌の粘っこい感触に耐えきれなくなり、手を引く。鹿男は少し気分を損ねたようだったが、「今度はあなたの番でしょう?」と当たりまえの権利を主張するかのように、わたしの口の前へ自らの顔を差しだした。

近くで見ると無精ヒゲの目立つ鹿男の顔からは、しばらく風呂に入っていないような小便の臭いが鼻をつく。助けを求めようと周囲を見渡すが、誰もいない。こんなときに限って、さっきまで釣りをしていたはずの男も、川面に頼りなく浮かんだまま動かない。

shika001

鹿男は、走って逃げだしたわたしの体を後ろ足で押さえつけ、わたしの舌を前足で無理やり引きだすと、それを自分の顔にゆっくりと這わせた。

できたての水死体を舐めたかのような感触が全身に走る。飲んだばかりのチューハイがたまらずに胃袋から逆流し、鹿男の顔面に飛びちる。

鹿男はその胃酸交じりのチューハイをまたもやペロリペロリと美味そうに舐めながら、「顔ハメ看板ならぬ、顔ナメ看板でしょう?」と鹿のように笑った。